ゆらゆらりんな日々

2代目柴犬と暮らす日々

★仮名手本忠臣蔵★

殿中でござる~平成中村座 歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」A、Bを見てきました




毎年暮れになるとテレビなどでよく放映される忠臣蔵。一度きちんと歌舞伎の方の忠臣蔵を見たいと

思っていたのですが、タイミングよくチケットが取れたので平成中村座の「仮名手本忠臣蔵」を

見てきました。仮名手本とは、いろはにほへと・・・の仮名文字が47文字、つまり四十七士を

手本には討ち入りが手本とすべき行動だという意味が含まれているそうです(プログラムより)

お上の目もあり、事件をそのまま劇化する事を禁じられていたため、歌舞伎では時代も人物の名前も

全て変えられています。浅野内匠頭は製塩業の盛んな赤穂藩の藩主であったことから、

塩谷判官(えんやはんがん)、吉良上野介高家筆頭という身分であったことから、

高師直(こうのもろなお)と名を変えて歌舞伎では演じられます。

でも大石内蔵助は大星由之助・・これはすぐにわかりますね。

歌舞伎では実際のストーリーにはない脚色がしてあって、それが様々な人物を交えて複雑な因果が

絡んで実に考えさせられる素晴らしい作りになっています。

松の廊下事件では吉良は当初は浅野ではなく、違う人物(若狭之助)ともめています。

そこへタイミング悪くやって来た浅野がとんだとばっちりを受け、更に吉良が自分のものにしようと

していた浅野の妻からの拒絶の手紙が運悪くその時に届き、ここからパワハラのような浅野に対する

侮辱と嘲りが始まります。「鮒大名」と言われ我慢していた浅野も度重なる悪口に耐えかね、

ついに刃傷事件に及びますが、止められとどめを刺す事も出来ずに取り押さえられてしまいます。

そうして皆さんご存知の「殿中で刀を抜いた為」に当日のうちに切腹を言い渡されます。

切腹の最中、大石の到着をまだかまだかと苦しみながら待つ浅野・・このシーンは迫力あります。

もはや間に合わぬか・・・・と思ったときに花道から急いで駆け付けた大石内蔵助が登場!

切腹シーンを花道側で真剣に見ていた私は大石の突然の登場に音でもビックリ(笑)

どんなに無念かを大石に伝え果てます。こうしてお家断絶、復讐を誓ってこの日は終わりました。


後日、Bプログラムでは大石内蔵助が戦意は失せたと見せかけて祇園一力茶屋で遊び呆けるシーン。

目が覚めるような鮮やかな世界、圧倒されました。途中外伝が色々あるのですが、

最後は47士で吉良邸の門の前で勢ぞろい、討ち入りを果たし華やかに花道を行進して行きました。

※ここで実際のお話しを少し・・・・・・・※

実際に「松の廊下事件」があったのは1701年3月14日 午前11時ころと言われています。

浅野内匠頭吉良上野介を切りつけ吉良の額に傷を負わせる。

5代将軍綱吉(「生類憐みの令」を発布「犬公方」と呼ばれ犬を特に擁護)が切腹を申しつけ、

浅野は田村邸(東京新橋あたり)に預けられその日のうちに切腹をし、赤穂浅野家が断絶します。

その事件を知らせる為に当日に使者が江戸から赤穂までの距離620kmを駕籠で向かいます。

大石たちがその一報を知ったのは5日後の19日。当時歩けば15、6日はかかったであろう距離を

なんと4日半で到着した事になります。その間、使者は駕籠に揺られて眠る事も出来ず、

到着した時には息も絶え絶えだったと言われています。

その後、大石は様々な処理に奔走し、急進派の堀部安兵衛らの暴走を抑え、

浅野家の再興を願いますが、望みは叶わず討ち入り決行を決めます。

1702年12月14日赤穂浪士47名は討ち入りを決行し吉良の首を携え吉良邸から浅野家の

菩提樹 泉岳寺東京港区)へ徒歩で向かい墓前に報告します。討ち入り後は幕府の沙汰が決まる

まで46人は(1人は姿をくらましています)4大名家にそれぞれ預けられます。

1703年2月4日午後2時頃、切腹を言い渡されます。浪士達はそれぞれに辞世の句を書いたり

家族への伝言を頼んだりして最後の時を待ちます。切腹の場はそれぞれの大名家の庭に設けられ

正面に幕府の使者が座り、死装束に身を包んだ浪士達は一人ずつ呼び出され作法通りに果てます。

午後6時ころまでには大名4家で46人全員の切腹が終わったそうです。

一方悪者として描かれている吉良さんですが、実際は名君で愛妻家でもあったと言われています。

新田の開拓や塩業の発展に尽力した人物とされています。

しかしエリートの政府高官であった彼はエリート所以に大名たちから反感をもたれたとも言われ

幕府が浅野のみに厳しい判決を下したことでエリートへの反感や嫉妬が幕府にではなく、

被害者であった吉良さんに向けられたとも言われているそうです。
浅草浅草寺の裏で行われている「平成中村座
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幕間ではこんなお弁当を頂きました
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2回目は夕方からでしたので舞台が終わるとすっかり夜でした
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お土産で「切腹最中」を買いました。中に求肥の入ったとっても美味しい最中でした
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「あら楽し 思いは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし」

これは大石内蔵助が吉良の首を携えて浅野の墓前に報告に行った後に詠んだ句と言われています。

「死ぬことになったけれども念願を果たせてとても良い気分でもうこの世に思い残すことはない」

という意味だそうです。大石内蔵助は44歳の生涯に幕を閉じました。

大石内蔵助はお酒をこよなく愛し、絵や和歌や俳句もたしなみ、舞や茶道の心得もあったとか。

皆さんは歴史や人物、好きな時代物ってありますか。今月は「法界坊」を観てきます